日々の覚書
2009-05-26T01:54:55+09:00
nekomama44
何も起こらない日々の日記
Excite Blog
4年ぶり
http://nekotamago.exblog.jp/11074393/
2009-05-26T01:54:55+09:00
2009-05-26T01:54:55+09:00
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nekomama44
雑事
日々仕事をして帰宅して寝るという生活で、すっかりTVを見ることもなくなってしまった。
現在はNHKの朝のニュースを時計代わりに見ているだけ。
たまにチャンネルをつけると、知らない芸人ばかりが映っている。
爆笑問題より若い人たちが全くわからない。
もしかしたら、自分は懐メロ世代になったのかも。
以前の記事をざっと見ると、懐かしさと共に恥ずかしさも。
また感想と言う名の批評・悪口は、敵を作るものだと思った。若い頃は敵を作っても
自分は自分と押し切ったが、今は仕事でも疲れているので、息抜きのネットにおいても
疲れたくないなあと思ったり。←人生守りに入っています。
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国立博物館 中宮寺弥勒菩薩とベルリンの至宝展
http://nekotamago.exblog.jp/2533573/
2005-04-17T22:40:06+09:00
2005-04-17T22:38:31+09:00
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nekomama44
未分類
隣の恐竜展は子供連れで大賑わい。40分待ちの大行列だったが、弥勒菩薩もベルリンも人はあまりいなかったのが意外。弥勒菩薩は近くで見ることが出来るが、部屋の照明がかなり暗く、像の顔の部分に2箇所から間接照明を当てているのだが、これが逆に明るすぎるのか、妙に微笑を浮かべているような表情の頬の部分が強調されテカテカしていた。
ベルリンの方は、世界美術館紀行で見たばかりのバビロニアのライオンの壁の一枚があった。浮き上がった体をTV画面の平面でなく実際に間近に見れたのが嬉しい。エジプトでは例の猫がいた。この猫の像、我が家にもレプリカがあるので思わず親近感を抱いた。ちょっと面白かったのがコインコレクション。アレキサンダー大王の物、クノッソスの物、ギリシアの物、カール大帝の物、ローマの物、プロイセン芸術対象メダイヨンという物まであった。お目当てはボッティチェリの「ヴィーナス」とプッサンの「ユピテルの養育」、そして何と言ってもラファエロの「聖母子(コロンナの聖母子)」だ。ヴィーナスは、「ああ、ボッティチェリだな」といった感じ。ただヴィーナスの目の下のくまなのか化粧なのか疲れているのか、黒々としていたのが気になった。遠目には何とも思わない点だが、今回のように近くで見るとそこにばかり目が行ってしまった。
ラファエロを見るために出かけたのだが、驚いたことに絵の非常に傍まで近寄ることが出来る。絵の描かれている板の在り様までじっくり眺めることが出来た。ともかくラファエロだ~と、それだけで嬉しい。ポストカードを買ってきたが、マリアの頬の色が実物より赤みが強いような気がしたが、気のせいだろうか。
収穫だったのが、エリザベート・ルイーズ・ヴィジェ・ルブランの「名声の寓意に扮した王子ヘンリク・ルボミルスキの肖像」だ。両性具有の姿らしいが、背に羽、手に月桂樹の葉の冠を持ち立てひざをついた姿は、可愛らしくも妖しい魅力に溢れている。
ところで、この展覧会のテーマ曲があるそうで、ALFEEの高見沢俊彦氏によるものらしい。(宣伝のチラシにはあった。)でも会場でも、CDが売られているようには見えなかった。チラシにも題名が「Berlin Calling」(仮)とあるので、もしかしてまだ発表されていないのだろうか。間に合わなかったのだろうか。]]>
義経 第14回 さらば奥州
http://nekotamago.exblog.jp/2527844/
2005-04-17T01:35:24+09:00
2005-04-17T01:33:51+09:00
2005-04-17T01:33:51+09:00
nekomama44
TV番組
都では、源頼政(丹波哲郎)親子の裏切りを平宗盛(鶴見辰吾)が清盛(渡哲也)に報告する。宗盛曰く、先の乱でも頼政は源氏を裏切ったのだから、裏切ることにかけては天下一と。まるで人事のようなおしゃべりに袖をビシバシ言わせて「頼政め!」と怒る清盛。最近の清盛はテンションが上がってきたぞ~。呆然と見送る宗盛と下に控えていた河童童子の麗子像となっている長髪の五足(北村有起哉)。
頼政追討に出陣したのは平知盛(阿部寛)と重衡(細川茂樹)兄弟だった。園生寺に身を隠していた頼政親子は奈良の興福寺へ移る途上、宇治の平等院に陣を敷いた。息子仲綱(光石研)は、以仁王(岡幸二郎)を逃がし、平家の軍勢をしのいでいる内に興福寺の僧兵が来るかもしれないと言う。そこへ平家の軍を率いて知盛らが現われ、何だかよろよろしている(息子に支えられて登場した)頼政に「頼政殿、降服なされ。さもなくば討たねばなりませぬ。」と勧める。前回もそうだが、知盛は頼政をやけに大切にしており、この期に及んでもまだ「頼政殿」と親しみと尊敬の念が見える。「本望にござる。」と返す頼政。しかしその「かかれぇ~」の号令は何だか気が抜けたような声だ。(顔は力が入っているのだがこの声にはへなへなしてしまった。)これを聞いた知盛は矢をつがえ頼政を射る。肩甲骨下あたりに矢が刺さり「さらばじゃ~」と去っていく頼政。声に力がなく、去っていく全身シーンもなかった丹波、大丈夫だろうか。感に堪えた表情の知盛。堂の阿弥陀像の前で既に死んで横たわっている頼政、そして「父上」と言いながら自害する仲綱。ここに平家討伐の頼政親子の企てはついえたのだった。治承4年5月(1180)、頼政77歳だった。
以仁王は、奈良に逃げる途中、矢に当たり落馬し30歳で死亡。岡幸二郎、今回は台詞なく目をひんむいて死んでしまうだけの5秒程度の出演だった。この間「スタジオパークからこんにちは」では岡さんは、「以仁王」の死骸には首がなかったので本当は彼は生きているかもしれない。是非また出してという声が出れば出演もありうる」と言っていたが、すかさず黒田あゆみに「もう収録も終わっていますから」とすげなくされていた。実際に以仁王の遺体は別人の物で彼は生きていたという噂は当時もあったと文献にはある。また宇治の平等院にはその芝生の上に扇を置いて自害した頼政の墓がある。
頼政は歌人として有名で、最期の時も「埋れ木の花さく事もなかりしに身のなる果ぞ悲しかりける」(埋もれ木のように世間から見捨てられ花咲くこともない自分なのに、こうして挙兵しこのような結果に身を結んだことは何とも悲しいことだ」と詠み、腹に刀をあてその上にうつぶして刀に貫かれて死んだ。その首は家来が平家に取られないように石をつけて宇治川に沈めた。
鳥羽殿では、後白河法皇(平幹二朗)が丹後局(夏木マリ)に息子以仁王の死を慰めてもらっている。丹後局は院宣をくださなかったのは懸命だと言い、うなずく法皇。
5月30日、息子達を前に摂津福原の港の完成を告げ、帝や一門、公家を福原へ連れて行き、都を移すことを命じる。時子(松坂慶子)は、清盛を呼び出し、まさか本気で都移りをし、しかも準備の日数もおかず、まるで鳥が飛び立つがごとし、都人は父祖代々の土地を捨てねばならず人心がかえって落ち着かず、得心がいかないと詰問する。清盛は一門を守るためだと答える。時子は都が京都へ移って32代、380年余りと妙に具体的な数字を出してくる。神仏の祟りが恐ろしいと泣く時子。清盛は「遷都の事はいつかわかる時が来る」と遷都を強行する。6月2日、遷都が行われ都はごったがえすも、人々の表情は不安と諦めがにじみ出ていた。
遷都を聞いた義経たち。平家の権勢を示したいのだろうが、これでますます平家が図に乗ると話す藤原泰衡(渡辺いっけい)ら。しかし義経は以前清盛が語った「福原はわしの夢の都だ」という言葉が忘れられない。
夜、清盛の寝所に大量の鼠発生。突然湧いて出る炎の中の頼政、以仁王、
西光法師(向雲太郎)、藤原成親(森源次郎)。皆、清盛によって殺された者たちだ。「おのれ、物の怪」と刀をふりかざすが亡霊は斬られることなく消える。そこへ現われた五足に口止めをする清盛。五足はこれは誰かが清盛を呪詛しているのでは、とつぶやく。思い当たる節がありすぎる清盛。
当時、都は飢饉に襲われ、人々はこれも清盛の強引な遷都のせいだと、憎しみや怒りを募らせていた。後白河法皇は、「いたましい」と嘆く。側近の大膳大夫信成(木村彰吾)は、かつての摂関家の屋敷は盗賊に襲われ雨風にさらされて朽ちていると告げる。丹後局は「まさに地獄でござります」と落ち着いて言う。「父祖が代々眠っておられる都を打ち捨てた。祟りじゃ、怒りじゃ」と怒る法皇は、もはや平家ではいかんのでは、と考え「まことにさいですなぁ」と相槌をうつ丹後局。
北条時政(小林稔侍)の元に以仁王の死の知らせが入り、政子(財前直見)は以仁王の令旨も反古同然だと言う。頼朝は(中井貴一)以仁王の亡骸に首がなかったので生きているという噂があると語る。政子は以仁王が生きているという噂は幸いだ、なら令旨も生きているということになると、父時政を説得する。頼朝は今、この令旨に賛同して挙兵したらどのくらいの兵が集まるかと尋ねる。50ほどの兵では大庭や伊東といった平家方の豪族と戦えないと考えるのだが、時政は三浦3000兵が見方につくはずと答え近隣の武者も立つと力強い。目を輝かせる政子。これを聞いて突然、以前以仁王から挙兵の催促があった時はお力になれなかった、しかし今、方々の力があれば千人力、万人力、伊豆守様の弔いのつもりで兵を挙げると宣言する。前回は流人の身だなんだと言っていた頼朝だが、三浦の3000兵が効き挙兵を決意。カットも正面、サイドと凝っていた。頼朝は以前、政子が「時を待て」といったのは周囲が平家打倒の機運が高まるのを待てという意味で言ったのだな、と尋ねると、政子は「思いの他、早かった」と答える。計算高い頼朝と腹黒く政治的な政子、嫌な夫婦だ。友達にはなりたくないな。二人の間で出陣姿の頼朝を見てニコニコしている政子の弟、北条義時(木村昇)が可愛い。
時政の兵は山木を討ち取った。頼朝挙兵を知った平家方の大庭景親(伊藤敏八)は梶原景時(中尾彬)と3000の兵を率いて頼朝に迫り石橋山にて合戦。三浦は前日の雨で遅れ、あえなく頼朝は敗退。洞窟に隠れている頼朝、時政ら6人。落ち武者狩りに「これまでか」と言う時政。「諦めてはならぬ」と諭す頼朝。そこへ梶原景時が現われ「勝敗が決した今、追い討ちをかける気はない。真鶴まで行けば土肥殿の船がある。夕闇にまぎれて山を降りろ」と頼朝一行を見逃す。石橋山の合戦、まったくと言っていいほど合戦の光景はなかった。北条の嫡男宗時の死なんて会話の中で出てくるのみ。頼朝が隠れたのも確か木の洞だったような気がするが、今回は頼朝ご一同様が隠れるため大きな穴となった模様。しかし切迫感がなかった。
頼朝敗戦の知らせは早速奥州へ。義経は「自分も駆けつけたかった」と悔しがる。命を惜しむ伊勢三郎(南原清隆)を怒鳴る義経。出発を秀衡が止めたことを恨んでいるか気にする泰衡に、義経は自分の身を心配してくれたのだから恨んではいないが、だがこんな時だからこそ兄の傍にいたかった、と言う。これを聞いた泰衡は「兄弟とはそうしたものかもしれませんな」。
木曽の義仲(小澤征悦)のもとにも頼朝挙兵の知らせが届き、自分も兵を挙げると言う義仲。目を見開いて頷く巴(小池栄子)。巴も義仲も鼻息が荒い。
頼朝挙兵の知らせは平家にも届いていた。知盛はやはり命をとっておくべきだったと言う。清盛は維盛(賀集利樹)を総大将に「父、重盛の供養と思って働くが良い」と頼朝討伐に出す。一方頼朝は真鶴から船で安房へ逃れ、勢力を盛り返し相模の鎌倉へと入った。このあたり地図だけで簡単に説明。
福原では、平家の女達が菊見の宴をしていた。領子(かとうかずこ)に安徳帝の様子を聞かれた乳母輔子(戸田奈穂)は、当初は乳母の務めが果たせるか不安だったが、今は成長が楽しみだと答える。そこへ現われた清盛と常盤の娘能子(後藤真希)に、明子(夏川結衣)と輔子はひそひそ。どことなしか意地悪そうな容貌の能子だが、「よろしくおみしりおきを」との挨拶にうなずく時子。そこへ夫重盛亡き後出家した経子(森口瑤子)が登場、喜ぶ時子。この菊の場面、これだけ菊を集め豪華にしているが、別になくても良いシーン。後藤真希の顔見世だけだった。これなら石橋山合戦にもうちょっと時間とお金をかけても良かったのでは。
義経は、秀衡に暇をくれと申し出る。源氏の血筋だと言う義経だが、秀衡は忘れよと言う。義経はこのままでは元服しても独り立ち出来ていない、これでは自分が何者かわからない、家来を持つ身としては家来を存分に働かしてやりたい、戦場で運も所領も切り開いて初めて大地に立てる、これが源氏の武士としての道だと思うと語る。秀衡はもはや止められぬと、戦支度を全部してあげる。結局、最後まで頼っている義経だった。佐藤兄弟
忠信(海東健)と継信(宮内敦士)も義経に続く。そこへ岡の上に見送りに出る秀衡。「そなたの帰る所はここだ。」妙に気に入っちゃっている秀衡だった。義経はまだ台詞がすべっているが、若武者の姿はお人形のようで絵になる。
平家は富士川の西側に迫っていた。頼朝軍は鎌倉を発っていた。兄のもとへ、義経は急ぐ。もうすぐ兄がいる、まだ見たことのない頼朝との対面を前に義経の胸はたぎっていた。
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義経:滝沢秀明
弁慶:松平健
伊勢三郎:南原清隆
駿河次郎:うじきひとし
喜三太:伊藤淳史
佐藤忠信:海東健
平領子:かとうかずこ
平時忠:大橋吾郎
平維盛:賀集利樹
平盛国:平野忠彦
藤原泰衡:渡辺いっけい
藤原国衡:長嶋一茂
木曽義仲:小澤征悦
巴:小池栄子
佐藤継信:宮内敦士
五足:北村有起哉
源仲綱:光石 研
以仁王:岡 幸二郎
平知盛:阿部寛
平明子:夏川結衣
平宗盛:鶴見辰吾
平経子:森口瑤子
平重衡:細川茂樹
平輔子:戸田奈穂
平能子:後藤真希
安達盛長:草見潤平
藤原忠衡:ユキリョウイチ
大庭景親:伊藤敏八
堀:徳井優
天野:真夏竜
土肥実平:谷本一
北条義時:木村昇
中原兼遠:森下哲夫
大膳大夫信成:木村彰吾
家貞:来須修二
西光法師:向 雲太郎
藤原成親:森 源次郎
真砂:辻葉子
木曽義高:富岡涼
牛若(回想):神木隆之介
藤原秀衡:高橋英樹
後白河法皇:平幹二朗
北条政子:財前直見
丹後局:夏木マリ
梶原景時:中尾彬
北条時政:小林稔侍
平時子:松坂慶子
源頼政:丹波哲郎
源頼朝:中井貴一
平清盛:渡哲也
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世界美術館紀行 復元古代の大祭壇 ベルリン・ペルガモン博物館
http://nekotamago.exblog.jp/2524777/
2005-04-16T19:45:49+09:00
2005-04-16T19:44:17+09:00
2005-04-16T19:44:17+09:00
nekomama44
美術
ということで、幅30数メートルに及び大祭壇を発掘し、ドイツへ運び25年ほどかけて再現したという話。ギリシア神話の神々と巨人達との戦いを描いたリリーフは見事だが、現在この遺跡が出土したペルガモンはただの丘。返してあげたら、という気がした。]]>
丹下左膳余話 百万両の壺 山中貞雄監督
http://nekotamago.exblog.jp/2497433/
2005-04-12T23:25:39+09:00
2005-04-12T23:24:49+09:00
2005-04-12T23:24:13+09:00
nekomama44
映画
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大魔神再婚
http://nekotamago.exblog.jp/2441835/
2005-04-05T21:59:30+09:00
2005-04-05T21:58:18+09:00
2005-04-05T21:58:18+09:00
nekomama44
ニュース
「義経」 第13回 「源氏の決起」
http://nekotamago.exblog.jp/2426854/
2005-04-03T23:27:43+09:00
2005-04-03T23:26:34+09:00
2005-04-03T23:26:34+09:00
nekomama44
大河ドラマ「義経」
源頼政(丹波哲郎)の子仲綱(光石研)の名馬「木下(このした)」を平宗盛(鶴見辰吾)が所望し、仲綱は愚図るが、父頼政は譲るように諭す。馬を譲り受けた宗盛は”木の下”の名を”仲綱”と変え、馬の体に烙印を押した上、馬の聞き分けが悪いと鞭で殴り、それを見て客人らと大笑いをした。それを聞き仲綱は悔しがり、頼政は「自分はこれまでは何もせずに清盛様の影で従三位にまでなったが、生きていた証が欲しい。もう一花咲かしてみたい。」と平家打倒の気持ちを固める。ところで、今日の丹波、少し声が高いように思うが気のせいだろうか。このシーンではみかけや演技は重いのだが、ちょっと声が軽い感じがしてしまった。
以仁王(岡幸二郎)は後白河法皇の第3皇子だが、生母の身分が低いため親王宣下も受けられず不遇の身だった。頼政親子は以仁王に、諸国の源氏を召集し平家打倒に立ち上がるよう令旨(りょうじ)を書かせ、新宮十郎(行家と改名)(大杉漣)に諸国の源氏にこれを届けるよう命じる。以仁王も都人の演出のためか、鼻から抜けたような喋り方だった。好機到来と喜ぶ行家だが、令旨を伝える自分が無位無官では重みにかけると官位をすかさずねだり、八条院蔵人の役職を形だけだが得るなんぞ、大杉漣は嫌らしさ抜群の役が良く似合う。
鳥羽殿で後白河法皇は、以仁王の令旨の件を聞き落ち着かないが、丹後局(夏木マリ)は、どちらが勝っても良いではないか、それまで貝にならしゃりませと諭す。丹後局は先の政変の折に斬首された平ナリフサの妻で、鳥羽殿に押し込められた法皇を気の毒に思い鳥羽殿に来たとのこと。この後白河の寵妃は唐の楊貴妃に比される美女だったと当時の公家の日記にはあるが、この夏木丹後局は妖気妃だった。
熊野の新宮では、遊女(麻生花帆、田尻智子、松本享子)の舞を酒に酔いながら見ている行家や法師(鶴忠博)ら。行家は平家追討の令旨を諸国の源氏に渡すのだと、法師らが止めるにも関わらず遊女達に言ってしまう。気分は最高の行家は「天は我を見捨ててはいなかった!」と絶叫し喜びを隠せない。
伊豆では、源頼朝(中井貴一)が北条政子(財前直見)の婿として北条邸に住んでいた。そこへ到着した行家が、自分は以仁王の使いだと言うと、前回の清盛と後白河の使いの時と同様、それまで上座にいた頼朝が行家に座を譲る。挙兵をためらう頼朝に行家は、これまでの源氏の恩讐を忘れ平家打倒を、とせっつくが、頼朝は「自分はまだ流人で平家の見張りもあるので、早々にお引取りを」と返事を留保する。比企尼(二木てるみ)や安達盛長(草見潤平)は「やっと時節が」と源氏の巻き返しが始まることに喜ぶが、頼朝は「嫡流の私を都は忘れていなかったのだ。自分の存在は忘れられていなかったのだ。」と感無量。行家を帰した際は何か思案ありげだったが、結構単純な頼朝だった。自分の存在価値云々よりも、これからどう挙兵していくのかということを考えるのかと思ったのだが。先の頼政といい、行家といい、この頼朝も、自己の存在を認められたいという欲望が第一にあるように見えた。どうも功名心というよりも、今流行りの「自分を認めて欲しい」という本来の自分を知って欲しいという欲望、また本来の自己表現の場を求めているような気がした。
北条時政(小林稔侍)は、「令旨があるのなら頼朝はすぐにでも挙兵せよ」というが、頼朝は「あれが本物の令旨か」と疑う。政子は、頼朝が行家に胸の内を見せなかったのは懸命だという。時政は血気立つが、政子は「味方はたった数騎だ、今は天下の趨勢を待ち、そのうちに良い風が吹いてくるだろう」と冷静。ここですっかり場をしきっているのは政子だ。頼朝は、もっと策謀の人かと思ったが、今回は何だか頼りない奥さんにおんぶしている婿殿だ。
平泉の秀衡は、源氏と平家の戦いになればどうするかを義経に尋ねる。義経は「源氏として戦う」と答えるが、秀衡は「かつて父とも思った清盛に弓をひくことになる」と言う。それを聞き義経は胸騒ぎがするのだった、と語る語り手。この期に及んでまだ躊躇している義経君だった。
北条の館での話し合いでは、「挙兵が遅れると源氏の世になった場合、その後立場がない」という者たち。時政の息子北条宗時(姫野惠二)だろうか?数人いたが、誰が誰だかわからない。時政は、「こうなることを先こして頼朝を婿にした」と調子が良い。この話し合いには北条氏のみで頼朝はいない。ここでも中心の座に政子がおり、「兵が足りないのだなぁ」と何かを考えている。既に源を食い物にする北条の萌芽が出ている場面だ。
木曽では、木曽義仲(小澤征悦)とキノエの子ども義高(富岡涼)が、キノエの叔母にあたる巴(小池栄子)のもとで育てられていた。(巴が母と言う説もあり。この義高と、頼朝と政子の大姫との悲恋とその将来を思うと悲しい。「草燃える」では大姫を斎藤こずえが演じていたなぁ。まだ彼女も可愛かった。)巴は、武士ならば叱られてしゅんとするでないとスパルタ教育をしている。義仲は巴のあて付けのような教育方法には賛成はしていない。そこへやって来た行家。義仲は行家の平家打倒の話に、以前京の都に上がった折に見た京が忘れられないと既にルンルン気分。すかさず巴が「女が忘れられないのだろう」と口を挟む。小池栄子、もともと顔がくっきりしているので、口うるさく気が強い役は合う。しかし嫉妬深い女として前回から描かれている。また行家と義仲は叔父、甥にあたり、しかも二人とも父親を源義朝に殺されていたため、心一つにと結託する。
行家は5月に奥州へ来た。義経は令旨を言い渡されてもまだ迷っている。伊勢三郎(南原清隆)は盗賊にまでなったがやっとこれで平家に報いることが出来ると喜ぶが、義経の異母妹の父が清盛だと喜三太(伊藤淳史)から聞かされ、義経の迷いがわかる。またかつて平家が義経暗殺を謀ったと聞き、駿河次郎(うじきひとし)も俄然打倒平家に燃え上がるが、義経はやはりまだ煮えきれない。しかし義経主従、影が薄い。いつも大勢でわいわいやっている中学の部活動のよう。うじきと南原の大げさな演技も鼻につく。で、弁慶(松平健)は大根持ったり、薪を割ったりという所ばかりで、この人も下僕化してしまっている。
清盛のもとに、熊野で以仁王の令旨を見た者がいるという話が伝えられた。清盛は「すぐに以仁王を捕らえよ」と命じるが、頼政は先に以仁王を寺に移し戦支度をする。以仁王がいなくなったため、平知盛(阿部寛)は清盛の命令を知る頼政の屋敷に行くが、そこで見たものは屋敷を燃やし、その中を悠然と歩く頼政だった。驚愕し「これはいったい・・・」と尋ねる阿部に、にやりと笑い刀を手前に掲げ炎の中に消えていく頼政。今日のVIPだ。丹波、格好良すぎるぞ~!驚いて引き返した知盛は、例の宗盛の馬への仕打ちが頼政の恨みをかったのでは、と宗盛を平重衡(細川茂樹)と責める。清盛は「おのれ頼政!」
奥州では、義経は頼朝が挙兵ならば自分も従うというが、秀衡は令旨などは院宣次第でどうとでもなるので、清盛や後白河院を見くびってはならぬと冷静に語る。
いよいよ決起は近づく。太鼓の音の中がいやがうえにも気分を高揚させる中で、義仲、頼朝、義経と3人のショットを次々と映し出す。この最後はなかなか燃えた。
今回の主演女優賞は丹後局の夏木マリ。出てきた瞬間、「石橋」の赤毛の獅子の黒バージョンか、もしくは「菊児童」のお婆バージョンかと見まごうばかりの、ぼさぼさ頭。点々眉毛に猫なで声。妖しすぎる。そして主演男優賞は勿論頼政の丹波哲郎。大霊界だけではないねぇ。関係ないが、この人の自宅の前は、よく通る。立地条件は良く、こじんまりした落ち着いた品のある家だ。助演男優は、行家大杉漣しかいない。酒飲んで気が大きくなっちゃう所が、主演男優にはなれないが、この人がいなければ今回は始まらなかった。
他の役者についてだが、少々情けない感じがする源仲綱役の光石研は、邦画にはでまくっている人。小林と同じプロダクション。格好が良かった以仁王役の岡幸二郎は、ミュージカルなどの舞台役者。「オペラ座の怪人」のラウル、「レ・ミゼラブル」のアンジョルラス、現在「レ・ミゼラブル」でジャベールを演じ、今とてものっている俳優。4月8日金曜日午後1:05からのNHK「スタジオパークからこんにちは」に出演予定。
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義経:滝沢秀明
弁慶:松平健
伊勢三郎:南原清隆
駿河次郎:うじきひとし
喜三太:伊藤淳史
木曽義仲:小澤征悦
巴:小池栄子
源行家:大杉漣
源仲綱:光石研
以仁王:岡幸二郎
比企尼:二木てるみ
安達盛長:草見潤平
平知盛:阿部寛
平宗盛:鶴見辰吾
平重衡:細川茂樹
藤原泰衡:渡辺いっけい
常盤(回想):稲森いずみ
平盛国:平野忠彦
北条宗時:姫野惠二
堀:徳井優
天野:真夏竜
中原兼遠:森下哲夫
仁田:上杉陽一
木曽義高:富岡涼
牛若(回想):神木隆之介
家貞:来須修二
家継:伊藤聡
阿部正宗:佐藤正浩
公家:茂木和範、谷藤太
法師:鶴忠博
武士:大久保運
遊女:麻生花帆、田尻智子、松本享子
くぐつ男:大坪光路
藤原秀衡:高橋英樹
後白河法皇:平幹二朗
丹後局:夏木マリ
北条政子:財前直見
北条時政:小林稔侍
源頼政:丹波哲郎
源頼朝:中井貴一
平清盛:渡哲也]]>
NHK俳壇 辞世の一句
http://nekotamago.exblog.jp/2418055/
2005-04-02T22:13:26+09:00
2005-04-02T22:12:18+09:00
2005-04-02T22:12:18+09:00
nekomama44
TV番組
鈴木真砂女 すずきまさじょ(1906-2003)
戒名は真砂女でよろし紫木蓮
(かいみょうは まさじょでよろし しもくれん)
銀座の路地裏で小料理屋を営みながら96歳まで活躍。良い意味での悪女、エロティックさが「紫木蓮」に出ている。
松尾芭蕉 まつおばしょう (1644-1694)
旅に病で夢は枯野をかけ廻る
(たびにやんで ゆめはかれのを かけめぐる)
俳諧を求めた。
大阪で病没する際、弟子に書き取らせた句。自虐的な句で積極性がないとも言える。枯野は、幽界もしくは求めて得ざる世界とも取れる。
与謝蕪村 よさぶそん(1716-1783)
しら梅に明る夜ばかりとなりにけり
(しらうめに あくるよばかりと なりにけり)
俳諧に遊んだ。
もう白梅に明ける夜だけになってしまった。残されたのはこれだけだ。蕪村も弟子と同じように弟子に囲まれた最後で、その際この句を出してきた。芭蕉は枯野、蕪村は象徴詩として芭蕉を意識し鮮やかな白梅を出した。夜明け時の白梅に納得している強い象徴度の句。
小林一茶 こばやしいっさ (1763-1827)
やけ土のほかりほかりや蚤さわぐ
(やけつちの ほかりほかりや のみさわぐ)
俳諧で生活をしようとした。
住んでいた土蔵が焼け蚤が騒いでいる。ありのまま、気取りがない。自然の生活体。
花の陰寝まじ未来がおそろしき
(はなのかげ ねまじみらいが おそろしき)
こちらも辞世の句とも言える。最後に作った句。花がきれいだからと言ってうっかり寝たら死んでしまいそうだ。だから寝たくない、という生への執着がある句。
正岡子規 まさおかしき(1867-1902)
糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
(へちまさいて たんのつまりし ほとけかな)
痰一斗糸瓜の水も間にあはず
(たんいっと へちまのみずも まにあわず)
をとゝひのへちまの水も取らざりき
(おとといの へちまのみずも とらざりき)
病床の子規が、自分の死期を悟り母や妹、高浜虚子を呼び、自分がこれらを書き、筆を投げ捨てて置いたと言われる。ここまで来た自分の情勢に即して状況を書いた写生とも言える。ただし子規の場合はたえず病状は悪くいつ死んでも良い状態だったので、辞世の句と本人が意識していたかどうかはわからないが、結果的に絶筆となった。19日に死に、14日の朝は気持ちが良い朝で、虚子に書かせたりしていた。子規はこの状態が続けば良いと思っていたようだ。
種田山頭火 たねださんとうか(1882-1940)
もりもり盛りあがる雲へ歩む
(もりもりもりあがる くもへあゆむ)
漂白の俳人山頭火が自分が今、生きている姿を句にしている。生命力に溢れている。
秋の夜や犬から貰つたり猫に与へたり
(あきのよや いぬからもらったり ねこにあたえたり)
どの句を辞世の句とするのかは、ファンによって異なる。これもユーモラス。
尾崎放哉 おざきほうさい (1885-1926)
春の山のうしろから烟が出だした
(はるのやまのうしろから けむりがでだした)
破滅思考で死にたくて仕方がなかったやけっぱちの漂白の俳人(実際に放浪したのは晩年3年間)。インテリの破滅型。最晩年の小豆島での放浪の句は、一つ一つが辞世の句といった所。
芥川龍之介 あくたがわりゅうのすけ (1892-1927)
水洟や鼻の先だけ暮れ残る
(みずばなや はなのさきだけ くれのこる)
自殺の遺書の中にあったもの。死の際、自分にいちゃもんをつけているダンディーさがある。鼻が自慢だった芥川らしい句でもある。
萩原朔太郎 はぎわらさくたろう (1886-1942)
行列の行きつくはては餓鬼地獄
(ぎょうれつの いきつくはては がきじごく)
昭和十七年、戦争に対する絶望や反抗がある。また朔太郎は芭蕉が好きだったので、「旅に病んで」を受けているようにも見える。開き直り時代に抵抗している。詩では、自分の気持ちをストレートに表現することはせず、象徴的に出す人なので、最後にこの句のように自分を出した句を作ったことは驚きだ。
西東三鬼 さいとうさんき (1900-1962)
秋の暮大魚の骨を海が引く
(あきのくれ たいぎょのほねを うみがひく)
水のように漂泊した人だが、癌の手術をした後、深まった。自分も大魚と同じように海の奥へと引っ張っていかれるのではないか。宇宙にまで繋がった大きな句。
壇一雄 だんかずお (1912-1976)
落日を拾ひに行かむ海の果て
(らくじつを ひろいにいかん うみのはて)
晩年の句。悲しみと交わって晩年を送っていた人。ポルトガルから帰ってくる時に読んだもの。哀愁と直情がある。ポルトガルの民謡ファドを聞く思い。
辞世の句とは、
和歌の世界ではこれが辞世の和歌だと格好をつけるが、俳句の場合は構えがない。芭蕉は自分の句は全部辞世の句だとも考えていた。後の人が、その作者を語るために選ぶ面もある。]]>
明治 プロローグ 今、明治に何を学ぶか
http://nekotamago.exblog.jp/2411524/
2005-04-01T23:35:40+09:00
2005-04-01T23:34:34+09:00
2005-04-01T23:34:34+09:00
nekomama44
歴史
1.教育の重視
ペリー来航によりアメリカと不平等条約を結んだ。中国ではアヘン戦争でイギリスが勝利した。植民地への危機感から、西洋の技術を取り入れた。中国は軍艦を西洋から買ったが、日本は軍艦を造営する技術を学んだ点が大きく異なる。イギリスのロンドン大学には、伊藤博文(俊輔)などの政府要人の名前が名簿に残っている。彼らは国の留学生だった。明治は江戸の高い教育水準を基盤にして新しい教育を行った。この教育こそが日本近代化の核だった。京都では明治2年に、町の区画ごとに学校を設立した。京都の小学校に残る当時のカリキュラムを見ると、西洋事情といった西洋のものと、孟子などの古典の新旧双方を教えていたことがわかる。明治5年の学制の公布により全国に学校が作られた。
2.文化の独立
またこの時期には西洋の物を翻訳し新しい言葉を作っていくという翻訳主義により、西洋の制度と技術を消化していった。福沢諭吉や西周らによって多くの言葉が作られている。「哲学」「理想」「本能」などはこの頃生まれた言葉だ。当時、植民地だったインドは、西洋の言葉がそのまま英語やフランス語で使われていたため、明治のような変革は行われなかった。インドでは近代化を外国語で行わざるを得なかったが、日本は翻訳のおかげで文化の独立を保つことが出来た。日本文化を深く知ることがかえって外国文化の理解に繋がった。
3.人材の活用
武士をどのように活用するか、どのように人材を活用するかが難題だった。彼らを実業家、官僚、学者と言う新しい職業に就けた。武士はもともと官僚なので、西洋の近代国家の仕組みをすぐに理解出来た。大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允は頭角を現した武士だった。実業家の岩崎屋太郎、金融の安田善次郎、鉱山事業など多くの事業を起した五代友厚らも時代の変化に適応していった。日本は技術は西洋から輸入したが、人材は江戸の遺産を活用した。明治のユニークな所は江戸を廃棄せずに再利用したところにある。
この3つの特質を持つ人物 渋沢栄一(1840-1931)
渋沢は新しい日本は古い日本をいかし、その上に築かねばならないと考え、近代的な銀行、企業を作り、それらに融資を行った。それらを英英する人材を見出した。100年以上前の人物が作り出したものが、今なお機能しているということは非常にまれなことであり、渋沢が日本の近代産業の基礎を築いたとも言える。江戸時代の末、渋沢は埼玉県深谷市の農村に生まれ、その後、能力を認められ幕府の侍に取り立てられた。そして使節団の一員としてフランスに渡るが、幕府が倒れたのを知り帰国。明治になってすぐ、渋沢は政府要人大隈重信に呼び出され、幕府の一員で反政府派だった渋沢を政府の役人として登用したいと切り出された。渋沢は迷ったが、日本全体のために才能を生かして欲しいという大隈の気持ちを知り、明治2年政府の役人と成った。
渋沢の提案で、改正掛(かいせいがかり)が作られ、井上馨、大隈重信、伊藤博文など西洋文明の威力を知る人を後ろ盾に、能力を持つ人材が集めれた。近代郵便制度の立案者前島密をはじめ、かつての幕府の家臣たちも集まった。これは人材活用の典型だった。この改正掛の長として渋沢は様々な立案を行い、鉄道、電信の敷設、太陽暦制定、尺度や計りの統一、税金や土地の制度の改革など、様々な提案を行った。
明治6年、渋沢は役人から実業家に転じ、日本が豊かになるには民間にも人材を集め産業を興す必要があると考え、自らが牽引役になろうとした。東京日本橋兜町は、近代日本経済発祥の地。渋沢は株式により民間から資本を集め、日本発の本格的な銀行を開いた。初の銀行である第一国立銀行は、下層部は西洋建築、上層部は天守閣を模した建物で、日本の人材と西洋の制度を組み合わせて活用した明治の精神を象徴するかのような建築物だった。
銀行を拠点に産業を育てようと渋沢が直面したのは、外国製品によって市場が支配されようとする姿だった。明治10年代の初め、圧倒的に安く質の良い外国製繊維製品が国内になだれ込んでいた。渋沢は対抗すべく工場を国内に作ろうとしたが、本格的な工場の運営を任せられる人材がいなかった。渋沢は「実に事業は人物があって後のことで、資源がいかに豊富でも、計画がいかに立派でも、それを経営してゆく者に適材を得なければ、資本も計画も無意義になる。たとえばここに精巧な機械があるとしても、なんらかの動力を加えなければ働きをなさないと同様である。」(青淵先生訓話集)
渋沢は外国の技術を取り入れる時には、日本の実情に合わせる必要があると考えていた。「外国の工場の視察、書物の調査くらいで紡績のことがわかるものでない。・・・外国の方法が一通りわかったとした処が、日本では日本に適応した物を作らなければならぬ。外国の物をそのまま当てはめようとしても、とてもうまく行くものではない。(糸の太さ)の差異もあり、価格の相違もあり、その折り合いのつくはずがないのだ。」(百年史東洋紡)
渋沢は工場を任せられる人物を探した。工場運営の能力を身につける意欲を持つ人材がいるはずだと考えた。そして津和野の藩校養老館(森鴎外や西周が出た)出身の山辺丈夫(やまのべたけお)に目をつけ、明治12年、イギリスに留学山辺の元に渋沢から手紙が届いた。山辺は渋沢の工場経営法を習得して欲しいという渋沢の願いに答え、それまで勉強した保険の勉強を止め、マンチェスターの工場で労働者として働くことから始めようとしたが、どの工場でも断られた。ついに木綿糸の工場で働くことが出来た。山辺は英語の技術用語を日本語にしていき、紡績技術の翻訳書を作った。
帰国した山辺は、大阪に日本発の近代紡績工場を造った。明治16年、大阪紡績が操業開始。山辺は最新式の紡績機械や蒸気機関を取り入れ、西洋の技術を日本の実情に合わせるため原料の特性に合った製品を開発、豊富な労働力をいかすことのできる昼夜二交代制の生産体制を築いた。夜の作業には照明が必要なため、明治19年、工業用としては初の電灯を導入。その明るさは大変の話題となり5万人の見学者がいた。明治20年代には、日本製の綿糸が外国製品をしのぐ様になり、やがて主要輸出品となった。
その後も渋沢は、次々と事業を興し、ガス、電力、紙、レンガ、新聞、ホテル、海運、ビールなど関わった会社は500を越える。そのやり方は山辺の時と同じく意欲のある人材に運営を任せ、自分は後ろ盾になるというものだった。
明治20年頃には日本でも紡績と鉄道を中心に産業革命が起こり、明治22年には大日本帝国憲法発布、23年には帝国議会が開催され、近代的西洋国家の体裁は整った。日本の近代化の成功は、出来ることと出来ないことを区別し、目的に向かってエネルギーを集中させた点にある。技術や製品は当面西洋から輸入し模倣することに留め、限られたエネルギーを社会の変革に利用した。蒸気機関車は輸入すればよいが、会社や組織や社会制度は日本人自らが担う必要があった。
明治後半、華やかな消費文化が拡大しはじめる一方、貧富の差が出来、社会不安を引き起こした。渋沢は「今日の企業家の多くは、国家よりも社会よりも、まず第一に自己の利益に着眼する様になって居りはしまいか。明治初年の企業家に比して、その心事の相違はいかがであろう・・・ 日本の文化は、維新以来50年の間に長足の進歩したとともに、弊害を生じ・・・自己さえよろしければ他人はどうなってもという風に、西洋の良いことばかりでなく、悪いほうを模倣してそれが増徴してきたのが我国今日の状態である。」という。(青淵百話/青淵先生訓話集)
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NHKカルチャーアワー 漢詩への誘い
http://nekotamago.exblog.jp/2402614/
2005-03-31T22:45:19+09:00
2005-03-31T22:44:15+09:00
2005-03-31T22:44:15+09:00
nekomama44
中国もろもろ
美しき日本・百の風景 「老いて妖しき薄墨の桜」
http://nekotamago.exblog.jp/2394921/
2005-03-30T23:00:25+09:00
2005-03-30T22:59:23+09:00
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nekomama44
自然
岐阜県の山間を走る樽見鉄道で北へと向かう。終点の樽見駅(根尾村)に薄墨桜がある。3月半ば、能郷白山はまだ深い雪に覆われている。この山を源流とする根尾川が村の中心を流れ、鮎がすむ清らかな流れだ。能郷白山を望む高台に薄墨桜がある。樹齢1500年あまり、日本で最も古い桜の一つと言われている。大正11年には国の由緒ある桜の代表的な巨樹として国の天然記念物に指定された。1500年前、継体天皇がこの地を去る時に名残を惜しんで植えたのがこの桜だという伝説がある。
根尾谷は豪雪地帯で例年多くの雪が降る。山の杉は雪の重さに耐え切れず折れてしまう木が村のあちこちで見られる。薄墨桜のある山すそにも1mを越える積雪があり、村人が枝に積もった雪を丹念に落として冬を過ごした。桜は34本の支柱で支えられている。これまで何度も涸れる寸前までいった。そのたびに村人達は枝を支柱で支え、老いた根に若い桜の根をついで手厚く守ってきた。
春、開花間近の薄墨桜は、初々しいピンク色に染まっている。現在土産物屋を営む畑中政治さんは、昭和52年までは薄墨桜の木下に住んでいた。畑中さんは薄墨桜と共に育った。「現在は痛々しいまでに支えがある。あとどれだけ咲くがわからないが、生きて咲いて欲しい。」と語る。
開花から5日目、薄墨桜は満開となった。厳しい冬を乗り越え春を迎えた喜びに溢れている。先初めにはピンクだった花が、輝くばかりに白く透き通って見える。純白の花びらが重なり合って生まれる淡い影、それを見て人々は薄墨桜と呼んできた。
この時期に合わせて特別列車が走り、一日の観光客は一万人。全国から15万人が訪れる。人々は周囲100m以上にわたる広い柵の外側から薄墨桜を楽しみ。これは根を痛めないため。樹木医の浅野さんは、一番大切なのは根の部分だと言う。土はふかふかしているが、これが根には大切だ。北側の根はほぼ柵のあたりまで来ている。北側には山、手前には谷、この環境だと地下には地下水が流れており、常時綺麗な水が流れていることになる。そして根に綺麗な酸素、ミネラルを補給している。この再考の環境に植えられたことが、1500年生きられる秘訣だ。
桜のすぐ傍に薄墨観音堂がある。このお堂は大正12年に建てられた。大正12年、根尾谷に大きな台風が通過し、薄墨桜の太い枝が一本折れてしまった。その時、村人の呼びかけで落ちた枝を彫り、薄墨観世音菩薩像にした。お堂には歌が掲げられている。「うすずみの こころはすでにほとけなり ぼさつとなりて ひとをすくわん」(宮脇明道)一本の折れた枝さえも村人が大切に思う気持ちがこめられている。
昭和34年、伊勢湾台風によって桜は大きな被害を受け、年々衰弱していき、全く花をつけず枯れる寸前となった。その頃、作家の宇野千代が、痛々しく佇み、なお生き抜こうとする老いた桜の姿に、当時70歳の自分の姿を重ね、救済を決意した。雑誌に薄墨桜の惨状を綴ったエッセイを発表、また桜の保護を訴えた手紙を岐阜県知事に出し、その思いを切々と訴えた。その努力の結果、様々な延命作業が施され、薄墨桜は再び美しい花を咲かせるようになった。
薄墨桜を47年間写真を取り続けてきた藤原俊博さんは、後世に記録として残したいと考えている。いつかは枯れる桜だが、その姿を写真の中で永久に残したい、と藤原さんは語る。
午後4時過ぎ、日没を迎える。昼間、華やかな薄墨桜は夜の訪れと共に妖しい美しさに充ちた顔を見せる。薄墨桜には不気味な伝説がある。右京の助(?)の墓の墓標の変わりとして墓の後ろにこの桜は植えられたものだった。支柱をつける時などに人骨が出たこともあり、昔からこの桜は怖がられ、人々はここに寄らなかった。この桜の落ちた枝を家に持ち帰り薪にすると、血が出るといわれている。この伝説のお蔭で、この桜は切られることもなく現在まで生き延びることが出来たのだろう。
宇野千代は「薄墨の桜」という小説を書いた。そこでは老いた薄墨桜と絡ませながら、老女と若い娘の葛藤のドラマを描いた。我侭な老女に翻弄される桜の精のような若い娘。物語の結末で娘は無残な最期を遂げる。初々しい娘とおぞましい老女。二つの顔を持つ妖気漂う桜の姿が浮かぶ。
谷に雨が降った。開花から12日目、薄墨桜は散り始めた。花びらが雪のように舞い落ちる。老いてなお、毎年の春に絢爛たる花を咲かせ、一瞬のうちに散る薄墨桜。人々は輝く桜の命に出会うためにここへやって来る。花の季節を終えた薄墨桜、その幹や枝からは新しい枝が出てくる。老いながらもさらに生きようとする力に溢れた薄墨桜だ。
***********************
一度見に行ったことがある。満開前の雨の平日だったので電車はがらがら。桜の周りもほとんど人がいなかったが、これが満開頃の休日ともなると、電車は乗り切れないほど、乗っても200%満員状態、バスはのろのろの大渋滞となってしまうらしい。知り合いは車で出かけ、夕方6時過ぎにやっと辿り着いた。ともかく混むようだ。
薄墨桜という名前は、花びらが本当に薄墨色になるのかと思っていたが、この番組内の説明によると、純白の花びらの影で花びらが薄墨色に遠目に見えるということだったのが以外だった。]]>
ネットワークマンNW-E103 試用中
http://nekotamago.exblog.jp/2387399/
2005-03-29T23:36:03+09:00
2005-03-29T23:35:22+09:00
2005-03-29T23:35:02+09:00
nekomama44
買い物
実は店頭にはNW-HD2と、HD3が並んでいた。特にHD2は随分値引きがされていたのだが、手に取るとこのシリーズはずっしり来た。大きさは掌にすっぽり入るほどなので、パンフレットの写真を見ている時は良いなあ、と思っていたのだが、なるべくかばんを軽くしたかったので、この重さは我慢できなかった。(普段、しっかりしたかばんに物を詰め込んで持ち歩いている人からすれば、HD3の重さなど軽~く感じるだろうが。)それでこのNW-E103にしたわけだ。この4月には、I-PODのチューインガムタイプに対抗した形がSONYからも出るそうだが、これはおそらくもっともっと小さく軽いのだろう。ただこれは電池が使えず、内臓バッテリーを修理交換しなければいけないタイプなので、修理に出すのが面倒な私は通常の単4電池が使用できるこのNW-E103を最終的に購入したわけだ。
それにしても携帯用CDやMDは、思いしCDやMDを持ち歩く面倒から、今ではすっかり使わなくなってしまった。家でもパソコンのSonicCityばかり使っている。考えるとCDはレコードより試用期間が短く、MDはそれ以上に短期間しか使わなかった。考えたら勿体無いなぁ。]]>
LDからDVDへ
http://nekotamago.exblog.jp/2379019/
2005-03-28T23:09:08+09:00
2005-03-28T23:08:09+09:00
2005-03-28T23:08:09+09:00
nekomama44
雑事
しかしこれだと、英語字幕を見ている時に「これって、日本語で何になるのか?」と思い、ボタン一つで日本語字幕に変わるLDとは違い、その場面のタイムを覚えていて、後で日本語字幕のDVDに入れ替えてチェックすることになりそうだ。まあ、でもこんなに面倒くさいことは多分しないだろう。LDを購入したのは8年ほど前。あまり見ることなく時代はDVDへ。新聞記事を見ていると次世代DVDがもう直前まで来ているようだ。技術が進むのは良いが、それによってソフトを買いなおさなければいけないのが腹が立つ。若ければ意地でも買い揃えたろうが、近年はそういう根気も情熱も失せ、今あるもので我慢しようと思うようになった。また取り貯めたVIDEOも一度しか見てないものがほとんど。場所ばっかりとって、画質は年々落ちているため鑑賞に絶えず結局捨てる羽目になっている。]]>
義経 第12回 「驕る平家」
http://nekotamago.exblog.jp/2370971/
2005-03-27T23:35:42+09:00
2005-03-29T23:17:51+09:00
2005-03-27T23:34:45+09:00
nekomama44
大河ドラマ「義経」
義経らは一年に二度遠出をする。今回は出羽から越後へと出かけた。(平家の義経引渡しが前回は問題になっていたが、ふらふら諸国を旅するのはOKなのか。)既に義経主従の他にしっかり佐藤兄弟も旅に加わっている。しかし台詞なしで影が薄い。伊勢は先の奥州藤原氏の嫡男の問題を問いだすが、弁慶は恐らく国衡の母が正室ではないのだろうと答える。その折「私というものがありながら土地の女子に懸想などと!」と馬に乗った女(小池栄子)に追われる男が現われる。政子といい巴といい男を追い掛け回す女ばかりだ。女の悋気は恐ろしいという話から、弁慶曰く「だからわしは女と言うものは・・・」。男がまた現われ自分は信濃から来たと言って去っていった。その男が木曽義仲だと判明、義経は従兄弟だと喜んで会いに行くが、既に義仲一行は発った後だった。
京では火事が相次ぎ、夜な夜な混乱に紛れて盗賊も横行し、人々の不安が平家への不満となってくすぶり始めた。平宗盛(鶴見辰吾)は二度と盗みが出来ないよう、盗賊の手首を切り取れと命令する。五足の仲間がつかまり五足(北村有起哉)、烏丸(高橋耕次郎)、お徳(白石加代子)の目の前で手首を斬られた。盗賊の親玉朱雀の翁(梅津栄)は怒り、昔の仲間を集め平家の家を襲うとお徳らに絶叫する。「都を黒焦げにするんか」というお徳の顔が不気味。
朱雀の翁、平家相手に盗賊が戦が出来るならしてもらおうじゃないか、という気がした。また盗賊が処罰されることに怒りまくっているのだが、源氏の世になっても盗賊は処罰されるぞ。何だか万引きしたことをとくとくと語って謹慎中の紺野まひると同類のような気がした。結局、これまで平家への反感は、貴族とあと五足ら盗賊連中だけしか描かれていない。オープニングで、清盛が童子をスパイ(もしくは秘密警察)にしたて反平家の言動が出ないよう都を監視したと紹介されたが、これはオープニングだけでなく本編でもきっちり話しに出さないと、庶民たちの反平家の空気というものが見えてこない。
びびったお徳は清盛(渡哲也)のもとに行き、盗賊の朱雀の翁が仲間の厳しい処罰に腹を立て都に火をかけると言っていると密告するちくり屋お徳。また最近の平家の横暴は目に余る、棟梁として清盛が何も知らないではすまされない、清盛があまりにも大きくなってしまったため奥へと身を置いているのではと諫言する。清盛は、本当は耳が遠くなってしまったのだが、聞こえるふりをしていた、こらえ性もなくなり聞こえぬ苛立ちで声を荒げることが多く、重盛以外は物を言うことがなくなったと言う。そこでお徳は耳役として五足を推薦する。
前回の予告編で清盛が耳役を必要としたとあったので、一般の民衆の声が聞こえないという話かと思ったが、今日の清盛の台詞だと本当に年齢的なもので耳が遠いような気がする。だが耳が遠くなったと言っている割に、清盛は普通にお徳や五足と会話しているぞ。訳わからん。しかしあっちにもこっちにも良い顔をするお徳、鬱陶しい。
治承2年(1178)秋、中宮徳子(中越典子)は高倉帝第一子、言仁(ときひと)親王を生み、時子(松坂慶子)は涙し、女ならば男と偽って育てる覚悟だったと清盛に告白する。(後白河は、高倉帝に自分の子どもを養子にさせようと画策していた。これも後白河と清盛の対立の原因の一つ。)
12月、親王は東宮となり、それに伴って平家一門も出世、目出度い目出度いと一門は大喜び。平時忠(大橋吾郎)は兄上(清盛)は帝の祖父、自分は大叔父だと言う。平知盛(阿部寛)、平重衡(細川茂樹)は帝の叔父だと笑う。源頼政(丹波哲郎)も従三位に昇進し清盛の力添えの賜物と礼を言う。平維盛(賀集利樹)、平資盛(小泉孝太郎)と二人の息子も出世するが、平重盛(勝村政信)は元気がない。時忠は「平家にあらずんば人にあらずじゃ」「平家の世じゃ」と大喜び。だがこれを聞いて源頼政は顔色を変える。
その後重盛は病に倒れ、出家する。見舞う清盛に病の床の重盛は、法皇や朝廷に気をつけるように言う。以下、重盛の遺言。(注意:これまでになく一人の台詞としては長いです。)「父上には弱きところがおありになりますゆえ。情けが深すぎまする。鹿ケ谷における謀議の処罰の折、義理の兄藤原成親殿の命乞いを父上は聞き入れて下さり、備前に配流とはなりましたが。父上、成親殿を備前にて殺められましたな(ここでは語られないが崖から突き落とされ串刺し)。気づいておりました。それで良かったのだと存じます。父上は激しさや怜悧さをお持ちなのに、それを奥に抱え込んでおられる。それを押さえ込んで、情けばかりが表に顔を出す。怒りや悔しさをお持ちなのに、いつもそれを抱え込んで。とは申せそれらを表に出して頂きたくはございませんでした。手を汚すのはそれがしの役目だと。頼朝の髭斬りの太刀のこと、覚えておいででしょうや。あの太刀が偽物とわかった明くる朝、六波羅の寝殿の庭の惨状を見たのです。ああ、父上も心に夜叉を抱え込んでおられる。それで私の心は決まりました。父上の変わりに私が夜叉にも、鬼にもなって矢面に立とうと。この病は夜叉になった私への罰でしょうか。」すまぬと謝る清盛。泣く重盛。長かった~。4分以上あった!一応感動的な場面にしたいのかもしれないが、重盛の言っていることは良くわからない。成親を暗殺した清盛を心が弱いところがあるとか、情けが深いとか。何で?激しさや悔しさを隠す、つまり大根役者の渡の演技をここで総括しかつ長男の義務として弁解してみせたのだろうか。また重盛が手を汚す役を引き受け夜叉になったという割りに、そんなに悪徳非道なことを彼がしたような記憶がない。この大河の重盛、平家物語のような清盛の押さえ役でもなし、本人が述懐する程の夜叉としての迫力もなし、記憶にあるのは義経のことで妙に神経質だった小男といった点のみ。ともあれ勝村さん、これでお役目終わり。ご苦労様。そういえば剃髪は本当にしているように見えたが。
治承3年(1179)6月、摂政藤原基実(もとざね)に嫁いでいた清盛の娘盛子(22歳の基実に嫁いだときわずか9歳だった。)が他界、7月29日には42歳で内大臣平重盛が死去する。夏、清盛は五足に頭に剃刀をあてさせその血を採らせる。高野山に奉納する曼荼羅に、この血を朱色として火炎部分に使わせる。清盛はこの悟りの境地に入りたいものだと絵師(田口主将)に語る。NHKのHPの説明によると、この血染めの曼荼羅により清盛は、重盛亡き後自らが夜叉になることを決意したその表明らしい。解説がないとそこまでわかんないぞ!
白拍子の舞を見る宗盛(鶴見辰吾)と宗盛の子どもの平清宗(塩顕治)。これまでは目の上のたんこぶの重盛がいて、その息子の維盛、資盛に良いところを取られていたが、これからはこちらに運があると機嫌が良い。(ここで「いかにも」とお追従をしているのが家継(伊藤聡)だろうか?いつもオープニングのテロップに名前があるが、誰かわからない。)清宗は小さい頃から法皇の膝に抱かれ、ことの他愛しまれて育った(お稚児さんかな。)のだから、これからも栄達は望みのままだと喜ぶ。
だが宗盛の母時子は、重盛の喪中に祝い酒をしたと宗盛を叱る。宗盛は、異腹の重盛が死んで徳子腹の兄弟が栄達するのは母への何よりの孝養だと能天気。時子は、宗盛が喜びはしゃげば一門の中から信用を失うと叱る。しょげる宗盛。なんだか可愛い憎めない奴だ。
後白河法皇(平幹二朗)は、重盛が死んだのならその領地は自分に戻るはずだと考える。法皇が重盛の治領国を召し上げると、怒った清盛は甲冑を着けた姿で福原から5000の兵と共に都へ戻り西八条邸へ入る。慌てた法皇は側近の静憲法印(じょうけんほういん)(壤晴彦)を清盛のもとにやる。静憲法印は始めは部屋の下手にいるが、「院のお言葉をお伝えに参った」と言うと、上座の畳の上に座ろうとしていた清盛が下手へ、法印が上座へ座る。このあたりの身分差の演出はさすがに細かくやっている。
静憲法印は「朝廷内は穏やかでない。頼みの清盛のこの物々しい騒ぎはいかなることか。中宮、東宮を手元に招いたは福原へお連れするのでは、という噂も耳にする。これらは朝廷へ対し恨みを抱き報復の心ありとも取れるが、いかに!」と詰問する。それまで黙って目をつぶって聞いていた清盛が、目を開き「摂政基実の妻盛子は娘だ。基実の死後その遺領は盛子の物になっていた。にもかかわらず、盛子が死ぬとその領地を法皇が取り上げた。その一月後、重盛が死ぬとその領地越前を召し上げた。重盛がこれまで朝廷を守り、院らの御心を安んじてきた。ところが喪明けの頃、院は岩清水へ行き管弦の遊びをし嘆く様子もない。これは親として悲しみの極み。子々孫々まで変外なしとして賜った越前の国を取り上げた。祖父、父、自分と3代に渡り帝を敬ってきたが、今やこちらを滅ぼさんとする気配。鹿ケ谷の謀議でも俊寛らではなしがたい。背後に院があったこと、見抜けぬと思っているのか。重盛になりかわり鬼になると法皇に伝え申せ!」
今日、一番の見所はここだった。久しぶりに力の入った清盛だ。渡哲也、昨年の収録時には肺炎で入院し、一時は降板も考えたのだとか。昔もこの人は肺炎で大河を降板しているが、大役のプレッシャーに弱いのだろうか。この病気で演技にも専念できず力が出なかったらしいが、この収録の頃は体調も充分だったのだろう。力が入っている。前回の後白河を睨むところなども良かった。
しかし、清盛の息子が死んだからって言ってなんで法皇が喪中開けに宴会を開いてはいけないんだ?こういうことを言うから、平家が嫌われるのも最も。また盛子の領地問題だが、これはもっと話が複雑で、基実が死ぬと清盛はその膨大な領地の一部だけを、摂政を継いだ基実の弟基房に与え、残り大半を7歳の基実の息子基通に相続させた。これだけ聞けば息子に継がせたんだから良いんじゃないの、という話だが、実はその土地の管理を未亡人の盛子がすると言う名目で、実際は平家が支配してしまった。このため摂関家としては経済的収入が急激に減少。藤原基房としては、清盛憎し!となっていた。これまでも藤原基房が反平家で、その横暴を憎んでいたのも、こういった事情があったのも一因。この土地を清盛は、盛子亡き後、高倉帝に渡すことで平家支配を維持しようとしていたが、これを横取りしたのが後白河法皇だった。そして後白河は、基実の遺児基通(この当時成人していた)ではなく、関白基房の息子でたった8歳の師家を摂関家の嫡男と認め、平家介入を阻止した。このあたりの、一連の後白河VS清盛は、TVでは詳しく描かれていないので、滋子が死んだだけで急に後白河が反清盛になったかのように見えてしまったわけだ。
この後、怒涛の清盛の逆襲が始まる。まず藤原基房(中丸新将)の関白職を取り上げ、後白河法皇の側近39人を流罪(そのかわりに平家一門を送り込む。これで院の側近の治めていた国は平家一門の手に渡った。当時66国あり、半数以上が平家の物となった。)。基房、お歯黒口をわなわなさせ「かかる非道がまかり通るとは!」全く側近の流罪なんて目茶苦茶だ。(ドラマでは語られなかったが、清盛は取り上げた関白職を先にあげた基実の遺児基通に与え、基房を大宰府へ流した。)そして11月20日、法皇を鳥羽殿へ幽閉し院政を止める。移動中の牛車の中であろうか、院の「これからどうなるのだろうか」と怯えた目がいかにも平幹だ。さらにこの一件で殺されたものは十数人にも及んだ。
12月、清盛は言仁親王の即位の準備をし、翌年治承4年(1180)2月東宮は即位し、安徳天皇となる。この時の赤ん坊の子役、非常に笑顔が可愛い子だった。平安眉にして笑う徳子、不気味だ~。
平泉ではのんびり狩をする義経。すぐに歌いだす蟹こと伊勢が一人目立っている。波乱に満ちた治承4年(1180)は目前だ。だんだん面白くなってきたぞ!しかし義経が活躍せず、清盛が切れる回は面白いなぁ。
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義経:滝沢秀明
弁慶:松平健
伊勢三郎:南原清隆
駿河次郎:うじきひとし
喜三太:伊藤淳史
佐藤忠信:海東健
藤原国衡:長嶋一茂
朱雀の翁:梅津栄
お徳:白石加代子
佐藤継信:宮内敦士
藤原忠衡:ユキリョウイチ
五足:北村有起哉
烏丸:高橋耕次郎
木曽義仲:小澤征悦
巴:小池栄子
平重衡:細川茂樹
徳子:中越典子
平時忠:大橋吾郎
平維盛:賀集利樹
平資盛:小泉孝太郎
静憲法印:壤晴彦
平盛国:平野忠彦
藤原基房:中丸新将
絵師:田口主将
むじな:川島大
平清宗(子役):塩顕治
家貞:来須修二
大膳大夫信成:木村彰吾
家継:伊藤聡
真砂(時子の侍女?):辻葉子
騎馬武者:横山一敏、竹内康博
後白河法皇:平幹二朗
平重盛:勝村政信
平宗盛:鶴見辰吾
平知盛:阿部寛
時子:松坂慶子
源頼政:丹波哲郎
平清盛:渡哲也]]>
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2005-03-27T02:01:21+09:00
2005-03-27T02:00:25+09:00
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