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何も起こらない日々の日記


by nekomama44
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ETV特集 ロシアから見た日露戦争~兵士たちの手紙・日記が語る真実 その1

ロシア、サンクトペテロブルグのネバ河に係留されているオーロラは、日露戦争を戦った船だ。当時の戦艦で現存しているのはこれ1隻。(現存しているとは驚き。)この船は、日露戦争とロシア革命で戦った船として保存されてきた。これと同じように日露戦争では、130万を越えるロシア兵が旧満州で日本軍と戦ったが、現在まで彼らの写真や日記、手紙が保存されている。この残された資料から見た日露戦争が今回のテーマ。

日露戦争当時、ロシアはヨーロッパの軍事大国で、陸軍は500万人で世界最強を誇っていた。しかし日露戦争でロシアは東洋の小国日本に予想外の敗北を帰し、難攻不落と言われた旅順が落ちた。日本海海戦では主力のバルチック艦隊が、壊滅的な打撃を受けた。この敗北は軍事的な敗北に留まらず、ロシア帝国に不満を持っていた人々の運動に火をつけた。帝政打倒を叫ぶ革命家の呼びかけは、疲れきった兵士や労働者の心を捉えた。革命でロマノフ王朝は崩壊し、レーニンによる社会主義ソヴィエトが誕生した。日露戦争は、ロシアにとって革命への道を開いた決定的な出来事だった。

皇帝ニコライ2世は、揺らぎ始めていた帝政を維持するため、極東での拡大政策を取り、日本との対立を深めていった。開戦2日前の日記(2月6日)には、「夜は劇場に行って芝居を見た。とても面白かった。その後日本との交渉が打ち切られたことを知らされた。」とある。ニコライは日本との戦いに危機感を持っていなかった。日本はたいした敵ではなく、戦いは早い段階で決着がつくと考えられていた。彼は日本を過小評価し、自国を過大評価していた。

この頃、ロシアは強大な軍事力を背景に、満州から朝鮮半島へと進出を始めていた。これが大陸に進出しようとしていた日本との対立を招いた。日露戦争の発火点は朝鮮半島のインチョン。この港は中立港で、英仏の艦船も停泊していた。ロシアの巡洋艦ワリャーグに日本海軍から「インチョンを出て戦闘に応じよ」との通告が突きつけられた。ここでは日本海軍の方が数で勝っており、ワリャーグの航海士の日記には、「ルードニフ艦長は、今日日本海軍から戦争開始の通告を受け取った。我々には降伏はありえない。最後の血の一滴まで戦わなければならない、といった」とある。降伏か、勝てる見込みの無い戦いか、選択を迫られた艦長は戦いを選んだ。

ワリャーグは日本艦隊13隻が待ち受ける港の外へ出て行った。11:45、日本側の一斉砲撃が開始、砲弾を撃ちつくしたワリャーグは1時間後、煙を上げ船体を傾けながら港へ戻った。31名が戦死した。艦長は船を日本軍に奪われる不名誉を避けるため船を沈めることを決断した。6:10、ワリャーグは沈没した。

同じ頃、中国の遼東半島の旅順でも戦闘が始まった。ここは深い入江になっており軍港に最適だった。ロシアは清からここを租借し、ロシア太平洋艦隊の基地としていた。ここでも日本艦隊が奇襲攻撃をかけた。公兵隊の大尉の日記「砲声が私を驚かせた。日本軍の攻撃は完全な不意打ちだった。」2月10日、日本とロシア双方が宣戦布告し日露戦争が始まった。

皇帝ニコライにとっては予想より早い開戦だった。ニコライの日記「芝居を見て夜、帰ったら電報が届いていた。日本の水雷艇が旅順の我が艦隊を奇襲攻撃したという。損失はさほど大きくは無い。」翌日、皇帝は教会へ戦いの勝利を祈りに行く。「人々の万歳と言う大きな声が聞こえた。みんな日本との開戦に興奮し、日本人は卑怯だと憤慨している。私は彼らの声を聞いて感動した。」

兵士の動員が始まり、町ではロシア軍が優勢と噂され戦列に加わりたいという人が殺到した。ニコライは大戦直後からロシア軍の士気を鼓舞するため、各地を閲兵する。ニコライの日記「各地の装備も食料も兵士達も素晴らしい。」しかし専制政治を続けるロシア帝国の土台は揺らいでおり、農村では多くの農民が土地を持てず貧困の中に暮らしていた。都市の工場労働者の暮らしも貧しかった。そんな中、帝政打倒を叫ぶ革命家たちが人々の暮らしの中に浸透していった。

ニコライは、人々の目を日本との戦争に向けることで、国内政治への不満を解消させようとした。そのために利用したのがワリャーグの戦いだった。そこで4月29日、ワリャーグの生存兵を宮殿に招き、一人ひとりに勲章を授けた。ニコライは全てのテーブルを回り、水平たちを歓迎し、620人の兵に食事を振る舞い、将校達と話をした。ワリャーグの兵士を讃える歌が50曲以上作られ、その活躍を伝える映画に人々は熱狂した。ワリャーグの戦いは国威発揚に最大限利用されていった。

8月、旅順で激しい戦いが起こっていた。旅順の周辺にロシア軍は港の防衛のため分厚いコンクリート製の要塞を築いていた。日本軍はまずこれらの要塞を攻め落とそうとした。これらの要塞には42000人の兵士と700の大砲があった。8月19日、日本軍の総攻撃が開始。一進一退の激戦が続いた。

戦いの裏では日露の諜報戦が繰り広げられていた。当時、ロシアの秘密警察はサンクトペテロブルクに派遣されていた武官の明石元二郎大佐を調査していた。明石は日露戦争が始まると、参謀本部からロシア帝国の転覆を図るため革命を煽動せよとの秘密指令を受ける。明石はドイツ、イギリス、フランスでロシアを亡命した革命家達と密会した。これをロシア警察が察知し徹底的に追跡していた。明石とフランスの革命家の手紙は、フランス警察の協力でロシア警察が写真撮影していた。「パリでの準備は順調だが、資金が不足」と革命家が武装蜂起のための武器調達の資金を明石に依頼している。明石を通して革命勢力に流れた日本の金は、総額73万円(現在の60億円)にのぼる。日露戦争終結後、明石が参謀本部に書いた報告書の草案には、専制政治に不平を持つ”不平党”と名付け接触した人物の名を上げている。その中にはレーニンの名もある。レーニンは34歳、革命派のリーダーとして頭角を現していた。レーニンは1900年、スイスのジュネーブに亡命していた。ジュネーブの国立図書館に通っていたレーニンの読書メモ(1904)には、レニエ「日本」やメインツィンゲル「日本人」とあり、戦争相手国に強い関心を持っていたことがわかる。革命派はプロパガンダのために機関誌を発行、この資金の一部も明石からの物だった。

大戦後レーニンはロシアの労働者に、「戦争が始まった。日本人はロシア軍に一連の敗北をもたらし、今やロシア帝国政府はその復讐に全力を注いでいる。人民は無知で権利も無く、抑圧と暴力の元に喘いでいる。こうした上に立脚した全ての政府組織は崩壊するだろう。ロシアの全てのプロレタリアートよ。忌まわしき皇帝の専制政府を撃ち倒そう。」と呼びかけている。レーニンら革命派は専制打倒に動き出した。ロシア警察はこうしたレーニンや明石の動きを把握し、皇帝ニコライ2世にも報告していた。ロシア警察の報告書「日本の明石は組織されたスパイ活動を行っている。皇帝陛下のご安泰のため、決然たる処置を取られるようご注進申し上げます」しかしニコライは何もしなかった。ニコライが重用したのは官僚主義的な才能の無い人物ばかりで、それらに囲まれたニコライは正しい判断が出来なくなっていたのだ。

9月、ニコライはバルチック艦隊を極東に派遣し、旅順港にいる太平洋艦隊の支援を決めた。これにより戦局を一挙に打開するつもりだった。バルチック艦隊は40隻を越える世界有数の艦隊だった。ニコライはバルチック艦隊を訪れ閲兵することで兵を鼓舞しようと考えた。司令長官ロジェストベンスキー中将は、ニコライが抜擢した元侍従武官だった。バルチック艦隊の将兵は14000人で、その多くが予備役兵だった。しかし艦隊には訓練がされておらず、司令官にも実戦経験がほとんどなかった。10月、艦隊は軍港リバウを出発し、スペイン沖からアフリカ大陸を迂回してインド洋に抜け、日本海へ向かうという総距離3万キロ、地球を半周する前代未聞の航路だった。1週間後、敵船に追撃されているということで不安にかられたバルチック艦隊の兵たちは、やみくもに砲撃した。しかし後で普通の漁船だとわかった。また砲撃の最中に味方の巡洋艦オーロラを撃ってしまった。しかしこの未熟な実態をニコライは全く知らなかった。

一方日本軍は、バルチック艦隊の派遣を知り、艦隊到着前に要塞を陥落させようと、9月には日本軍が誇る28センチ榴(りゅう)弾砲を投入し、港にも砲弾が届き始めた。ロシア軍は食料や物資の補給を完全に断たれた。兵士達は追い詰められ、戦場で不安に襲われる。当時、戦争の意味を理解している兵はわずかで、多くは日本がどこにあるのか、どういう国か知らず、前線で勇敢に戦ったが何のために戦っているのか理解出来なかった。別荘の皇帝は、ロシア軍大損害の知らせが届き始める。ニコライはショックを受け教会で祈ることが多くなる。旅順では4ヶ月に渡って日本軍が砲撃を繰り返していたが、6万人の死傷者を出しながらまだ陥落させることは出来なかった。

そこで日本軍は港のロシア船の位置が見渡せるため、ここを手に入れれば正確な船の位置を指示できる二〇三高地を砲撃の的と決めた。11月28日、二〇三高地での激しい攻防が始まる。塹壕付近はロシア兵と日本兵の死体で埋まった。12月5日、日本軍は二〇三高地を落とし、数日で旅順のロシア艦隊を壊滅した。

形勢不利とみたステッセル中将は独断で降伏を申し出、乃木希典大将と会見した。開戦から10ヶ月、この旅順陥落が日露戦争の大きな転換点となった。 (続く)
by nekomama44 | 2005-03-03 23:06 | 歴史