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何も起こらない日々の日記


by nekomama44
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「罪の意味 少年A仮退院と被害者家族の7年」

FNSドキュメンタリー大賞を取ったもの。被害者の父と兄のインタビューをもとに被害者家族にとっての7年の時間を語った番組。番組内では、被害者の氏名と亡くなる1ヶ月前の写真、父の名前、兄の名前、兄の子供時代の写真が映されているが、現在の父と兄の姿は後姿のみ。母はインタビューはない。事件を風化させないために、被害者の会の活動のために名前をあえて出したのだろうか。番組内の「父は~」というナレーションは、兄がインタビューで口頭では言えず紙に書いたものを再構成したもの。

重い番組だ。だが、加害者だけが法によって守られている現実を再認識するために、こういった番組に出演した被害者家族のためにも、この番組は見なくてはいけないと感じたので、このブログにも番組内容を掲載することにした。
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息子を殺した酒鬼薔薇聖斗が、医療少年院から仮退院したとの電話が、被害者の父親のもとにかかってきた。

7年前の5月24日、神戸市須磨区友が丘のタンク山で小学6年生の男子が、14歳の中学生に殺された。被害者には二つ年上の兄がいた。

兄「寝る時に思い出したりするので、多少寝つきが悪くなった程度です。部屋の電気を消したらふと出てくるというか、夢でも出てくる事が結構あるから、なるべく夜遅くまで起きて。だから睡眠はすごく嫌いなことの一つですね。」

今、兄は二十歳。「あの日の午後、家はいつもと変わらない雰囲気だった。祖父のところに行くと言って出た弟が帰ってこず、5時頃になり心配になってきた自分は自転車で探しに行きました。2、3時間探して、ふと戻っているのではと思って家に帰りましたが、弟は帰っていませんでした。父たちが探しに行っている間、なんでこんなに遅いんだろう、とそう思いながら待っていました。事故とか嫌なことは考えないようにしていました。5月27日火曜日、学校に行こうとマンションの下まで降りたところで、父が厳しい表情で今日は学校に行かなくて良い、と呼びに来ました。その時の表情を見て、何かあったと感じました。でもそれ以上のことは考えたくありませんでした。」

弟の行方がわからなくなった3日後、兄の通う中学校の校門で、首を切られた弟の頭部が見つかった。その後、弟の体はタンク山のアンテナ施設で見つかった。顔は傷つけられ口には「酒鬼薔薇聖斗」と書かれた挑戦状が残されていた。

当時の兵庫県警捜査一課強行班係長 武田秀一警部
「奥さんは、約2週間ほとんどもう話も聞けない状態。お兄ちゃんも閉じ籠もり状態で話は聞けない。だから先生(父)が代表して、しばらく落ち着くまで私が代表して話すから、女房、子供には話を聞かないでくれ、と。(事件が約2週間ぐらい経った頃に兄に話を聞くが)まだ正常な状況じゃないですね。本当に話がぽつんぽつんと話すぐらいで、単語的で話すぐらいで、なかなか向こうから文章的に言葉が返ってくることはなかったです。」

父「はっきり言って現実のことだとは思えない状況ですね。映画の中のワンシーンといいますか、何か夢を見ているような状況で、足が地に着いているとは言えない状況だった。現実なんだろうなと頭では理解しつつも、それは違うと思うような別の自分がいて、そんな感じの状況ではなかったかと思います。」

1ヵ月後の6月28日、神戸市須磨区居住の中学3年生A、男性14歳、顔見知りの犯行だった。過去に例のない凶悪な罪を犯した14歳の少年は、少年法の精神に乗っ取り一般社会から隔離される。その一方で被害者の家族はクローズアップされていった。(家の玄関に入る花束を持った警察関係者らしき2人とその写真を撮る報道陣の群れ。そして「とてもコメント出来ない」という家族の張り紙が映される。)

当時、家族が住んでいたマンション。今は空き部屋となっている。

父「あの日、須磨警察から帰ってきて、もう当然前の道も渋滞している状況ですけれども、帰ってきた状態でもうマスコミ関係者が待ち構えていたわけですよね。前のマンションからカメラで狙われているのも一目瞭然でしたので、ずっとカーテンを閉め切ったままの状況が7月半ばまで続いていました。」
「なぜ、被害者がここまでされなければいけないのか。非常に疑問に思いました。本当に異常な状態ですから。」

武田秀一警部「(兄は)一緒の部屋でしたから、一緒の部屋で寝て、一緒の部屋で勉強していましたから、弟が突然いなくなるわけですから寂しいということと、常に外に出て行く時は一緒に出て行ったような状況でしたので寂しいと。」

兄弟が机を並べていた子供部屋。言葉の遅れていた弟は、つとめて声をかけてくれる兄のことを「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と慕っていた。

兄「何も頭がすごく考えようとしなかったし、それと同時にごちゃごちゃとしていて、また気分が悪くて、何をしていいのかわからなかったし、未だに思い出せないくらい感情が渦巻いていたというか。ただ辛かっただけとしか言いようが無いです。」

少年Aが奪ったものは弟の命だけではなかった。どんなに心を許せる友達にも、これまで事件について話したことは無い。街角の漫才は偶然、相次ぐ少年犯罪の匿名報道についてだった。

兄「今はギャグはギャグとして見れるが、昔だったらそう軽々しく扱うなと怒っていたと思います。言うなれば自分から壁を作っていたと思いますが、何も理解してもらえないという壁を感じたんで、世間はすごく冷たい物だってわかりましたし、友達を同じ目で見ることも出来なくなったし、同じ目で見てもらえることもなかったと思いますし。耐えられないものって出来てきたんで。もともと相手も通っていた学校だし、すごく嫌だなあって。」

弟を殺したのは同じ中学の上級生。しかも同じ卓球部に籍を置いていた。事件後駆けつけてくれた神戸大学付属病院精神科の田中究医師はこう語る。

田中「はにかんだような、少し笑みを浮かべて来られたんだけど、これはすごく気を使っていらっしゃることがわかりますね。そんな状況の中で大きな事件を蒙った中で、笑みを浮かべることはすごく大変なことだと思いますし、そのためすごく内エネルギーを使っているんだろうと思いました。」
「(兄が学校へ行けなくなったことに対して)事件の現場でしょ。学校に行けるということの方が不思議ですよね。」

事件後、兄は学校に行きにくくなった。担任が気遣い頻繁に様子を見に来てくれたが、3年になってからはほとんど行くことが出来なかった。高校に行ったほうが良いと考えた父は、せめて家で勉強が出来るよう家庭教師を雇った。

事件は家庭裁判所での非公開の審査に移された。父は審判に出席して意見を述べたいと言ったが、聞き入れられず家族は蚊帳の外に置かれたままだった。さらに当時の少年法では16歳未満は刑事処分とはならなかった。そのため少年犯罪史上最も凶悪な事件を起こしたこの少年も保護処分となり、医療少年院に送られることになった。

武田警部「いろいろ悔しい思いはされていたみたいですね。名前が出ない、いろんなことで質問にも答えてくれない。私の方は教えてやりたくても少年法やらでそれは出来ないんや、と最初言いましたら、それ以後少年法の問題とか自分の悔しい思いとか、私に質問してくることはなかったです。」

父が審判への立会いを求めたのは、少年と向き合い事件が何故起きたのかを知りたかったからだった。現実を受け止めるためにも必要なことだった。が、希望はかなえられず、父の心から少年に会う意思は失われた。そして少年Aも、被害者の苦しみを正面から受け止める機会を失った。

一方では事件をきっかけに国会では刑事罰を科す年齢を引き下げる動きが出て、父も参考人として出席した。
父「犯人が14歳だと、まともな裁判もなく、まともな罰を受けることもなく、本当に殺された上に犯人に対する罰もろくにないという。私たち被害者遺族がそれで納得できるはずもない。この悲しみは絶対に1年やそこらでおさまるものではないし、犯罪で亡くした遺族は一生この気持ちからは逃れられない、と思っています。」

父「相手が大人であれば、二人の人間を殺して一人は大怪我負わせて、それ以外にも軽症を負わせている人がいるわけですから、当然これに対する罰は、非常に厳しいものになると思うんですけど。それから比較するとやはり納得するわけがないですから。いちおう日本は法治国家ですから、その法の中でやっていくしかない。問題があれば皆で変えていくしかないと思います。」

反社会的価値観や性的サディズムがあるとされた少年Aは、関東医療少年院では、その治療と矯正教育がはじまった。少年Aのために精神科医や法務教官らが特別処遇チームを作り、赤ちゃんを包み込むような対応につとめた。次第に少年は、死にたい一辺倒から、社会で温かい人間に囲まれて生きたいと思うまでに変化したという。

少年Aの更生が公費で行われる一方、兄には一切の公的支援はなかった。出席日数も足りず、公立高校への進学は絶望的だった。心に重い傷を負った兄を3年間、父が遠くの高校まで毎日車で送る日々だった。家族の力しか頼るもののない日々だった。

兄「更生してくれるようなら結構なこととは思いますけど、内心はどうして弟はあんな目にあわされたのに、相手側はのうのうと生きられて、社会的に保護されていてまともな生活ができるのかなと思いますけど。もし本当に罪が償えると思っているなら、それは傲慢だと思うし、所詮言い逃れにすぎないと思っています。被害者には何の権利もなくて、加害者に対してはすごく守ってくれるという、法律ではそうなっているのはわかっていますが、法律は正義ではないと思いました。」

なぜ被害者が救われないのか、被害者自身が声を上げ始めた。全国犯罪被害者の会では、被害者自身が刑事裁判に参加できるよう、署名活動をしている。父は大人の裁判が変わらなければ少年審判も変わらないと考えて署名活動に参加した。

加害者が法で守れているのに、何の手助けもない被害者。犯罪被害者の定例会では講師の弁護士に率直な質問が相次ぐ。

父「自分が犯したことの酷さ、残忍さ、被害者にどのようにさせたかをきちんと理解させることだと思います。その上で、反省。理解した上で反省しなければ更生の「こ」の字にもならないと思います。」
「教育したということが重要であって、更生されたかどうかは重要ではないというのが、今までの状況だと思います。」

そんな父の姿を見ながら兄には迷いがある。法律を変えても意味がないと、当初は父の活動にも反対していた。進むべき道も見つからず、高校卒業後しばらくは専門学校に通ったものの、迷い続けていた。

兄「漠然と何をしていいのか、その当時も全然わからなかったし、日々もしたいことだけするといった、先のことは全然考えていなかったです。勉強は必要なものだったとは思っていたんですけれど、人の人生はすぐにころころ変わるものですし、それに気づかされたんで、勉強しても意味がないみたいに。」

兄が悩み続けている時、少年Aは東北少年院へ行き、溶接技術を習い、危険物取扱者など4つの資格を取得していた。社会復帰に向けた準備が着実に進められていた。

母は弟のための場所に花を絶やさない。両親は弟の墓参りを毎週続けている。ヒマワリは弟の好きな花だった。今、少年Aの周辺では、少年Aの更生のために被害者に向き合わせたいと考えている。しかし父が向き合いたかった時期と、少年の周囲が適当と思う時期とはあまりにかけ離れていた。

両親にとってお墓は慈しんできた弟と向き合う大切な場所だ。兄はお墓を見ると怒りで気分が悪くなる。そもそも石の塊がなんなのかわからないという。だから週末の御墓参りには一緒に行かない。

兄「自分はあの時何も出来なくて、これまで何もしてこなかったので、何も出来なかったので、正直なところ一生償えないと思います。罪の意識があった方が弟の思い出は消えないので。自分でも罪は償えないと思います。」
「今さらなんですけど、あの時やはり一緒に出かけていれば。”もしも”という、自分がちゃんとしていればっていうのが、すぐに思ってしまうので。自分が守ってやることができなかったので、そこが自分の罪だと思っています。」
(家族はこのことを知っているかと聞かれ)「話したことはないと思いますけど、家族全員がそう思っていると思います。」

5月24日、あの日の午後、家はいつもと変わらない雰囲気だった。「おじいちゃんのとこ、行って来るわ」と出かけようとした弟に、自分は親との会話を中断して玄関まで見送りに行った。弟は「行って来るわ」といつものように笑顔で言い、自分は一瞬「一緒に行こうかな」と思った。しかし中間テスト前だったため行くのを止め、弟を見送った。これが弟を見た最後だった。

少年のプライバシー保護をうたう国は、被害者に少年の情報を伝えていない。しかし事件の重大性と父の強い求めに応じ、法務省は仮退院前に少年Aの更生の状況を伝えてきた。そして仮退院に関しては当日、電話で通知すると言う異例の約束をした。

事件から7年、治療成果を見るために少年Aと面会した外部の医師は、はきはきとした礼儀正しさに作り直された人工的な印象を受け、壊れやすい温室の花を想像したという。

遺体を傷つけたことについては、A「露悪的なことを言っていました。事実を曲げて言っていたこともあります。血を飲んだ話は作り話です。でも頭部を切断したのは事実です。」

新聞社への手紙は、A「異常な殺人者であることを定着させたかったんです。引くに引けませんでした。どこにも持っていけない怒り、社会や学校に対する。それを吐き出したいと思いました。」

死んでお詫びしたいと思ったことはありますか。A「そう考えたことはあります。淳君のお父さんの書いた手記を読んで、自分は生きていて良いのかと思いました。」

淳君への償いは。A「まずはお手紙をお父さんに書こうと思います。会ってくれるのであれば会ってみたいと思います。」

どういうことで自分が変わったと思いますか。A「まず一番は、この少年院で話が出来る精神科医の先生がいて、その先生と話をしていて、心を開いていろんなことを学ばせてもらったと思います。」

父「矯正教育が進んで改善していると聞きました。何を持って更生していると判断しているのかと質問をしましたが、難しいね。」

高校卒業から2年経ったこの春、兄は大学生になった。そして猛一つ新しいことに踏み出そうとしている。全国犯罪被害者の会の活動に参加するのだ。東京の幹事会に出席する父についていくことにしたのだ。

兄「自分は何も力のない人間ですから、だからもしこういうのに入って、自分がそういうのの一端でも担うことが出来るのならと思って。二十歳になりましたし。」

父「そういうことを考えられる心の余裕が出来たのかなと。上の子は僕より背が高くなったし、10cmほど低かったのが10cmほど高くなっちゃったし。時間は確かに経ったよね。亡くなった子供のことを考えた場合、そんなに経ったという感じはしない。」

兄「将来したいことが多少見えてきた。今までは全然わからなくて、自分は流されるままの人生だった気がしたので、やはり変えたいなと。」

父「今、私たちのやっていることを見て、何も感じない、思わないというならそれはそれで良いと思いますし、それを見て自分なりに考えて行動におこすということも非常に重要なことと思いますので。」

2004年3月10日、電話「本日関東医療少年院を午前9時5分に仮退院したということで、居住先は近畿地方ではないということで、それ以外のことはご要望があれば、仮退院のいきさつなどは後日説明をしたいと。全てが説明できるかどうかはわからないけれども、説明をしたいと。」

役人の記者会見「本日、いわゆる神戸児童連続殺傷事件の加害男性について、関東地方保護更生委員会の仮退院の決定を行い、これに基づき本人は仮退院しました。」

父は一度も記者会見を開いたことはなかった。息子の命を奪った少年が社会に戻ってきたこの日、父ははじめての記者会見に臨んだ。

兄「(父は納得していたかと言う問いに)納得していたらそもそもああいうことはしないし、やり切れない思いを抱えているのは十分に伝わりますし。よくもあそこまで出来る人だなと、自分の父ながら思います。ずっと気持ちを踏みにじられ続けていて、耐えに耐えた上でようやく取れた小さな成果だと思います。小さいけれどすごく大きい一歩だと思っています。」

少年Aは今年12月31日、正式に少年院を退院。自由の身となる予定。家族にとって新しい苦悩の始まりでもある。

2005年1月1日午前0時、少年Aは医療少年院を正式退院した。その後の父と兄のインタビュー。

父「もうすぐ年が明けるのかなと思いまして、これで彼も完全に自由の身になるのかなというふうに思いました。当然、釈然としない気持ちは持っていました。私の子供は命を奪われて戻ってくる事はありませんし、命を奪った方は教育を受けて晴れて自由の身になる、それにたいして遺族はそういう風に思うものだと思います。」

兄「週刊誌で話題に載っていた事ぐらいですね(父と少年Aについて話をしたかという問いに対し。)、謝罪文が公開されていたりとか。」謝罪文を読む気は、今のところはない。多分一生見たくない。所詮謝罪なんてものは、した者にとっての好都合な、自分に対する許しみたいなものだから。むしろそれがすごく不快。

昨年12月、犯罪被害者の権利を守る法律、犯罪被害者基本法がようやく成立した。しかし具体的な施策はまだ議論が始まったばかりである。

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私の知り合いの女性も、乱暴目的の男に絞殺され遺体を捨てられた。この事件の後1年ほど、彼女がどんな恐怖の中で死んでいったのかを考えると、こちらも息が詰まり目眩がした。家族でない者でもこうなのだから、まして肉親の悲しみと怒り、憤り、恨み、そして自責の念はいかばかりだろうか。この番組での兄の自分を責める言葉には、もうただただ涙した。
by nekomama44 | 2005-02-25 01:59 | TV番組